動くな、死ね、蘇れ

という映画を月曜日に見たのですが、
そのときも、そこに描かれたシベリアの寒々とした
風景や極貧のひとびと、いつも泥だらけの道、などが
いまだ、ロシアの現実的な風景なのかと
思えて困りました。
たぶん、ロシアにも、東京や京都のような
整然とした都市が存在し、
そこにはわたしのようなふつうの学生だって
いるはずでしょう。
映画とはおそろしいものです。


だけどもっと恐ろしいのは、
そうやって描かれたステレオタイプ
わたしたちの感情を根底から支配してしまうことです。
それは単に、偏見をもってアメリカ人やロシア人を見る
ということではなくて、彼ら自身が、
外に売り出されたステレオタイプを模倣するように
なってしまうのではないか、ということです。


明るくおおらかな沖縄や純情で情熱的な韓国が
描かれれば、それだけいっそう
わたしたちは、沖縄人や韓国人にそういった
行動を期待するし、彼らだってそのように
ふるまうでしょう。
私自身のことを言えば、
時おりどうしても方言で話したくなってしまうこと
があります。言い訳をするとき、すねるとき、自分の
愚鈍さを認めるとき。
それは、明らかにわたしがそういった
栃木県民のイメージを模倣することによって、
自分が傷つくことからあらかじめ防御している
と考えることができます。


なんていうか、映画からずいぶんはなれましたが、
このところ、こういうことを考える機会が
いくつかあったので、メモしておきます。