めんどくさい

明日のゼミ発表の準備が遅々として進みません。フロイトの「失語論」をまとめるんですが、とにかく専門用語が多くってなかなかさくさく書き進めるわけにはいかないんです。この論文の一番おもしろいところというのは、たぶん言葉や言葉についての記憶が、実際に人間の頭の中にどのように入っているのかということを、多角的に考察し、最終的には記憶とは、脳のなかにレコードのように刻まれているわけではなく、いろいろな要素が絡み合って、形成されているのだ、という結論を出しているところなのだろうと思います。
後のフロイトが、心理学草稿で、ニューロンについてわけのわからないことをたくさん書いたり、「自我とエス」とか「欲望とその運命」なんかで、液状のリビドーが流れていくイメージを展開したりした、その「モノ」的な精神活動の捉え方の源流がここにあるのです。リビドー論は、結局どんどんモデルとしての精度を高めていくなかで、「モノ」的である意味を失っていく―実際の精神活動がモノの動きで捉えられるわけではないから―わけですが、この「失語論」では、まさに記憶や言語装置は「モノ」として捉えることができるのか、ということ自体が論点となっているのです。フロイトはこの論文の中で、当時の局在論(それは、精神の活動を脳や神経というモノだけで説明しようとする考えでした)を批判し、言語装置は、決して物質的にのみ捕らえられうるわけではなく、さまざまな機能の組み合わせのなかで動いているんだということを訴えました。
まあ、だいたいこのあたりまではわかってきたわけですが、さてそれがどうなのか。その後の論文やわたし自身の研究テーマとどのような接点を持つのか、というところを考えていたら、もうすっかり眠くなってきたのでひとまず休憩します。